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HISTORY

曽我武史 History

曽我 武史 / Soga Takeshi
1971年11月2日生
東京都出身
高校生のときの大怪我をきっかけに、「アスレティックトレーナー」
という職業の存在を知る。この「アスレティックトレーナー」の出会いが、その後の人生を大きく方向づけることになる。
1990年 日本体育大学へ進学し、スポーツ科学・医学・トレーナー分野を学ぶ中で、「現場で本当に役立つトレーナーとは何か」を常に問い続けてきた。
1998年、バンコクアジア大会にて日本代表トレーナー(陸上競技)として初帯同した。
2000年、さらなる成長を求めてアメリカへ留学。
語学を学びながら州立大学内のアメリカンフットボールチームで学生トレーナーの一員として日本では経験できない様々な実践的な現場経験を積んだ。
2001年よりスポーツメーカーのミズノ(株)とプロ契約。ミズノ専属トレーナーとして所属選手らへのトレーナー活動が始まる(ミズノトラッククラブ:国内外合宿試合サポートなど)。同年、エドモントン世界陸上より再び陸上日本代表チームトレーナーとして帯同が始まる。以降、4度の世界陸上、アテネオリンピック(2004)、北京オリンピック(2008)など国際大会に日本代表チームトレーナーとして帯同。
2021年、東京オリンピック・パラリンピック大会は、運営側のメディカルスタッフとして活動。選手村内にある診療所(フィジオルーム)にて活動。世界各国の出場選手らのメディカルサポートに携わる。
2025年、東京世界陸上では、大会組織委員会メディカルスタッフとして大会運営側から国際大会を支える立場を担う。
2007年、東京都目黒区に鍼灸マッサージ治療院「TKC BODY DESIGN」 を開業。トップアスリートや学生アスリートだけでなく一般の方々含めて幅広い層を対象に、治療とコンディショニングを通じた身体サポートを現在も継続している。
また著書として「自分で正しく巻けるスポーツテーピング」講談社「テーピングメソッド」高橋書店「ひとりでできるスポーツマッサージ」実業之日本社など多数あり。スポーツ医学や雑誌などにも記事が多数掲載されている。TV(健康カプセルゲンキの時間)やラジオ番組、ショップチャンネル出演、講師や講演活動など幅広く活動している。

1988

ここからすべてが始まる
高校生のとき、足首を激しく捻挫し、靭帯を完全に断裂する大きな怪我を負い、この時の出来事が、私のトレーナー人生の原点となる。

怪我からの回復の過程で出会った鍼灸治療。ここで初めて「治療ができて、なおかつ選手を支えるアスレティックトレーナー」という存在を知った。そして、この時「これを仕事にしたい!」そう思った瞬間でもあり、すべてはここから始まる。

1991

チャンスを掴む
社会人アメフト最高峰・Xリーグでのトレーナー活動が始まる。

チームは、レナウンローバーズ。スポーツ医学を学びながら、平日は週2回の早朝練習、週末の練習、そして試合や合宿と、年間を通して現場に立った。自分より年上の社会人選手たちの声に耳を傾けながら、日々経験を重ねていく。日本ではまだ前例の少なかった、スポーツ現場でのリハビリやリカバリー対策、怪我予防の運動にも積極的に取り組んだ。学生でありながら、トップレベルのアスリートたちの現場に立つ。トレーナー人生最初のチャンスを、ここで掴んだ。

1992

道が開かれた瞬間
日本のトレーナー界にとって、歴史に残る大きな出来事が起こる。

公益財団法人日本陸上競技連盟(通称:日本陸連)の医事部内に、公的な組織として「トレーナー部」が発足した。

トレーナー部では、陸上競技の現場で活動するトレーナーを対象としたセミナーや研修会が毎年開催されるようになった。私もこのセミナーを受講し、トレーナー部の一員として陸上競技の現場で活動するきっかけを得た。

この組織の発足により、陸上競技におけるトレーナーは、単に選手を支える裏方ではなく、アスレティックトレーナーという立場で選手を専門的にサポートする存在として認められるようになった。また、国内の主要大会では、トレーナーが大会救護にも加わり、競技会を支える体制が徐々に整えられていった。

私にとっても、日本陸連という公的な組織に所属したことは、大きな転機となった。当時、トレーナーを職業として活動していた方はまだ限られており、そのような方々と同じ環境で活動することで、直接話を聞いたり、技術指導を受けたりする機会に恵まれた。それによって、私の活動の幅は一気に広がっていった。

ここから、私の本格的なトレーナー人生が加速していった。

1993

土台をつくった時代
大学4年時から、鍼灸学校(夜間)とのダブルスクールが始まる。

将来トレーナーとして活動していくため、治療の国家資格取得を目指した。日中は大学、夜は鍼灸学校に通いながら、トレーナー活動も継続。平日の朝練と週末の練習はアメフトチームで、イベントごとに開催される日本陸連の活動にも参加し、学びと実践を同時に積み重ねる日々が続いた。

大学卒業後は、昼は整形外科に勤務し、夜は鍼灸学校に通う「二足のわらじ」の生活を継続。勤務先の院長は、スポーツ整形のはしりとも言える存在だった。その考え方やアプローチに間近で触れ、医学的根拠の見極めや、リハビリで選手が回復していく過程を経験しながら、見識を深めていった。この時代に培った基礎の積み重ねが、後の大舞台で揺るがない支えとなっていった。

1996

判断力が磨かれた時間
二足のわらじの生活を経て取得した、医療系国家資格

24歳の時に『はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師』を取得。これを機に、公的にも「人の身体に触れ、責任をもって治療を行うトレーナー」となった。同年、日本陸連主催の代表強化合宿へのトレーナー帯同に抜擢される。

日本のトップ選手だけが集まる、ブロック(種目)ごとの強化合宿。

参加できる選手は20名〜30名。これに対して、トレーナーは私のみ。ここから、トップアスリート一人ひとりの身体と向き合う日々が始まった。

合宿先での主な役割は、
・日々の練習への帯同
・コンディショニング管理
・選手ごとの身体のケア
・怪我発生時の即時判断と医療対応との棲み分け
・国際大会に向けた選手とのコミュニケーション

限られた時間の中で、常に最善の対応と判断が求められる。専門種目の特性と、選手一人ひとりの感覚を理解することも重要な課題だった。ここで、トレーナーとして必要不可欠な「判断力」「対応力」「責任感」が徹底的に鍛え上げられた。

日本を代表する選手たちは、通常のアスリートよりも精細かつ鋭敏な身体感覚を持つ。その感覚を読み取り、把握する術を、この日々の中で身につけていった。

1998

夢が叶った出来事
怪我をきっかけにトレーナーになりたいと思い始めた、高校生の時(1988年)。やるからには、いつか実現したい夢がひとつあった。

「いつか日本代表の日の丸をつけて、選手と一緒に世界の舞台で戦いたい。」

あれから10年という歳月を経て、この年、その夢が現実のものとなった。陸上競技の日本代表チームトレーナーとして、バンコク・アジア大会(JOC管轄 日本選手団/陸上日本代表チーム)に帯同。

この大会では、日本選手の活躍が際立った。
伊東浩司選手(100m 10秒00金メダル)
高橋尚子選手(女子マラソン 金メダル)
室伏広治選手(ハンマー投げ 日本新記録・金メダル)
森長正樹選手(走幅跳 金メダル)
太田陽子選手(走高跳 金メダル)
川上優子選手(10000m 金メダル)

私にとって、これが初めての国際大会への帯同であり、夢の舞台でもあった。この舞台に立って初めて、「日本代表選手全員が、持てる力を試合で発揮するために何ができるのか」を考えさせられた。日本とは違う環境で選手をベストな状態に仕上げる難しさ、選手の身体感覚を理解する力の必要性など、それまで経験したことのない世界だった。現場で求められるトレーナーの判断、アプローチ、声がけ、そしてそれらに伴う責任や緊張感。多くのことに気づかされた。

毎日が必死で、今でも記憶が途切れ途切れになるほどの濃密な時間であり、すべてを懸けて向き合った大会だった。

2000

視野を広げた一年
夢が叶った国際大会を経験したものの、翌年(1999年)のセビリア世界陸上への帯同は叶わず、4年に一度のオリンピックイヤーを迎えたこの年も、強化合宿や海外遠征に声が掛かることはなかった。

それでも、「このままでは終わりたくない」。その思いから一念発起し、将来を見据えて語学(英語)を学ぶために、28歳で単身アメリカへ渡る決断をした。

渡航先は、テネシー州の州立大学内にある語学学校。ここは紹介してくれた友人がかつてトレーナーの勉強をした大学で、彼がヘッドトレーナーに掛け合ってくれたおかげで、学内のスポーツ現場に身を置くチャンスに恵まれた。語学学校に通いながら、学内のアメリカンフットボールチームの日々の練習や試合に参加させてもらえた。日本では経験のできない生の英語に囲まれた環境で、春季トレーニングからサマーキャンプ、そして緊急時対応を想定した実戦さながらのシミュレーション(郊外ならではのヘリコプターでの救急搬送訓練)など、日本では味わえない緊張感のある現場を数多く経験した。シーズン中は、ホーム・アウェイあわせて全13試合に帯同。アメフトのシーズンを終えると、今度は場所を変えて、大学の先輩がいる別の大学へ。

ここでは、男子アイスホッケーチームに関わる機会に恵まれ、日々の練習やケアに同席しながら、ホーム・アウェイの試合帯同もさせてもらった。競技特性の異なる現場を、スポーツの本場アメリカで経験できたこと。それは、日本とは異なる環境や業務内容の違いも含めて、大きな衝撃と感動を同時に味わう体験だった。特に、トレーナーという専門職の幅の広さには驚かされ、同時に、日本とは違う気配りや心配りの必要性を痛感した。

渡米中は、トレーナー活動の合間に、全米を一人で旅してまわった。異文化の中に身を置いて自分自身と向き合い、これまでの歩みをゆっくりと振り返る。この一年は、トレーナーとしての経験や技術、知識を得ただけでなく、人生そのものを見つめ直す、かけがえのない時間となった。

2001

世界と戦う現場へ
プロのアスレティックトレーナーとしての活動が本格化。

渡米から帰国後、ミズノ株式会社と専属トレーナー契約を結び、プロのトレーナーとしての活動が始まった。ミズノトラッククラブ(MTC)は、日本代表としてオリンピックや世界陸上に出場した経験を持つ選手だけが所属するチームで、多くの選手が日本記録保持者という、日本陸上界のトップオブトップのアスリート集団だった。私はこのチームの専属トレーナーとして、日々のコンディショニングケアに加え、強化合宿や国内外の試合に帯同。さらに、選手個別の欧州遠征に帯同したり、各選手の試合スケジュールに合わせて欧州を一人で転戦したりと、選手ごとの個別サポートも行った。今でいうパーソナルトレーナーサポートの先駆けとなる活動だった。MTC以外にも、高校駅伝の強豪・仙台育英学園陸上部のサポートに関わり、全国高校駅伝制覇にも貢献した。

同年より、再び陸上競技の日本代表チームのトレーナーに選ばれ、世界陸上(エドモントン大会)に初めて帯同。海外留学の経験を活かし、世界陸上に出場する代表選手たちを、開催地カナダの練習拠点から大会本番までフルサポートした。

この大会では、為末選手(400mハードル)が日本記録を樹立しながら決勝で銅メダルを獲得。世界陸上のトラック短距離(スプリント)種目では日本人初のメダルという快挙だった。私は、その試合直前のコンディショニングサポートにも携わった。

2002

現地対応力の真価
釜山アジア大会。オリンピックのアジア版となるこの大会、今回は選手村の外からの陸連サポートトレーナーとして参加。

前回のバンコクアジア大会では、選手村に宿泊しての現地サポート(2人)だったが、今回はADカードの制限で選手村には入れず、選手村の外に滞在しながら陸上代表選手団を支える3人体制。選手村内には男女1名ずつのトレーナーが入り、私は大会近くのホテルを拠点に、選手(チーム)の行動に合わせて動き回るという立場で現地入りした。

現地での移動手段から食事まで、海外生活の経験を活かして臨機応変に対応。早朝に試合へ向かう選手のサポートから、最終種目を終えた選手のフォローまで、縦横無尽に動き回って活動した。

アジアNo.1を決める国際大会への帯同は、これが人生2回目。日本代表チームのトレーナーとして帯同しながらも、選手村の外からのサポートという環境では、これまでの活動では起こらないハプニングも、自分一人で解決しなければならない状況だった。スマートフォンのない時代のため、渡された携帯電話1台という最低限の連絡手段での活動だったが、ここでも海外留学の経験が生きた。

2003

歴史的快挙の裏側で
2度目の世界陸上(パリ大会)に、日本代表選手団トレーナーとして帯同。

時差調整を兼ねた事前合宿地のドイツから、開催地フランス・パリまで。代表チームトレーナーとして、競技種目を問わず、すべての選手を支える役割を担った。この大会で開幕前から注目を集めていたのは、男子200mで日本記録を更新し勢いに乗る末續慎吾選手(ミズノ所属)。

欧州という環境ではあったものの、選手をサポートするメディカルスタッフとしては、順風満帆な大会ではなかった。食事によるアレルギー症状を発症した選手。リレー競技中に重度の肉離れを起こしながらもバトンをつないだ選手への緊急対応。さらに、決勝に進出した種目の選手が試合直前のフィールドでのウォーミングアップ中に肉離れを起こし、決勝を戦うことなく大会を終えざるを得なくなる場面もあった。海外遠征ならではの慣れない環境での即時判断が連日続き、代表トレーナーを含む関係スタッフとの連携が欠かせなかった。チームジャパンという組織力で、競技場から選手村までの救急搬送の手配・対応にもあたった。

国際大会では、出場選手の身体のケアだけでなく、メンタル面のフォローにも気を配らなければならない。選手対応は、技術だけではない。人として選手とどう向き合い、チーム全体をどう支えるか。その後の活動も視野に入れ、自分がどう立ち居振る舞うべきかを考える貴重な機会にもなった。

そうした困難な状況の中でも、日本チームは大きな快挙を達成した。男子200mで末續選手が銅メダルを獲得。その舞台裏を支える一員として貢献できたことに、大きなやりがいを感じた瞬間だった。

2004

オリンピックの重み
世界最高峰の大会、オリンピック帯同が現実となる。

舞台は、オリンピック発祥の地ギリシャ・アテネ。空港に降り立った瞬間から、これまで経験してきたどの国際大会とも雰囲気が違い、特別な空気感に包まれていた。この大会ではADカード取得規制が厳しく、JOC枠(陸上チームの日本選手団枠)には入れず、日本陸連からの派遣という形で現地サポートをすることとなった。つまり、現地入りしてからの行動や移動は、すべて一人で行う立場となる。我々の中で「村外対応」と呼ばれる枠組みでのサポートだった。

今回の宿泊先は、ホテルではなくメイン競技場近くの借家。ここを拠点に、選手村に常駐するトレーナーと連携を取りながら、選手村と競技場を行き来する日々であった。限られた環境の中で選手を支える役割は変わらないが、慣れない土地、言葉の壁、時間の制約。一人での行動は、自ら安全を確保しながら適宜判断し、決断しなければならない。ここでも留学の経験が生きた。広大な土地で開催されるオリンピック。移動手段は、選手村から各競技場へ向かう専用バスのほか、一般の観戦者と同じ電車や徒歩、タクシーなど。どれも行き先や運行時間など、確実な情報は自分で手に入れるしかない環境だった。そうした中で、早朝の試合から深夜まで、選手に必要なサポートは何かをトレーナーチームで考えながら行動した。

選手村に入れるのは朝9時から夜9時まで、出入りは1日1回のみ。そんなデイリーパスが、JAPAN TEAMから毎日割り当てられる。1日に選手村に入れる関係者の数が決まっているため、チームジャパンとして、陸上チームの枠は戦略的に割り当てられていた。

スポーツの祭典と呼ばれるオリンピック。世界陸上とは全く違う世界観で、世界王者ですら表情が違う。一瞬にすべてを懸ける覚悟と緊張感。それぞれが背負っているものの重さが、ウォーミングアップエリアにいてもひしひしと伝わってくる。この空気を通して、オリンピックを全身で感じた大会だった。

2005

全体を動かす判断力
陸上チームのヘッドトレーナーとして、全体を管理する。

オリンピック発祥の地アテネの翌年、舞台は世界陸上が初めて開催された地、フィンランド・ヘルシンキ。4年間の代表チーム帯同経験を経て、この大会から日本選手団全体のコンディショニングサポートを統括するヘッドトレーナーを任された。見るのは、もう目の前の選手だけではない。選手団全体が最高の状態で大会に臨めるように、チームとしての機能を整えることが私の役割になった。

ドイツでの時差調整合宿を経て、ヘルシンキへ。選手一人ひとりの状態を3名の代表トレーナーで共有し、練習・試合・移動・休養のバランスを見ながら、「今、誰に、何が必要か」を考え続ける。個人を見る目と、全体を見渡す目。その両方を行き来しながら、コミュニケーションと情報共有を欠かさない日々だった。

ところが、現地で待っていたのは想定を大きく超える異例の悪天候だった。連日の雨と、北欧特有の冷え込み。選手の身体は確実に影響を受けていく。雨天時の体温管理と筋コンディションの低下への対応を最重要課題に据え、ウォームアップ環境からケアのタイミング、試合前後の対応まで、自分の足で見て回って情報を集めた。その様子は写真に撮って選手たちにも共有する。不安の芽をひとつずつ消し、選手が競技だけに集中できるよう、裏側でできる調整を積み重ねた。

その冷たい雨の中で、ドラマは生まれた。為末大選手(男子400mハードル)が大雨のレースを勝ち抜き、決勝へ。ゴール後に転倒するほどの凄まじい激戦を制し、2001年の世界陸上(エドモントン大会)以来、2度目となる銅メダルをつかみ取った。

選手が結果を出すために、現場では何が最優先なのか。個人を見る視点と、チーム全体を動かす視点の両立。ヘッドトレーナーとしての責任と判断の重さを実感するとともに、この仕事の醍醐味を全身で味わった大会だった。

2007

TKC BODY DESIGNという挑戦
プロトレーナーとしての活動から心機一転。

TKC BODY DESIGN(鍼灸マッサージ治療院)を都内・目黒区にて開業。トップアスリートの現場で培ってきた経験や考え方を、一般の方々にも届けたい。アスリートと同じアプローチがどこまで受け入れてもらえるのか、新たな挑戦だった。一般的な治療のように「痛みをとる」だけでは、その場はやり過ごせても、再発してしまうことがある。だからこそ、「治す」こと。そして、再発させないだけでなく、今まで以上にパフォーマンスレベルを上げるところまでを提供する。それがアスリートと同じアプローチであり、それをこの治療院のコンセプトとした。こうして、治療とコンディショニング(メンテナンス)の新しい在り方を提供する挑戦が始まった。

来院される方の多くは、他でなかなか治らずに困っている方。繰り返すぎっくり腰や腰椎・頚椎ヘルニアによる痛みや手のしびれ、膝周囲の痛みや違和感(半月板損傷や変形性膝関節症など)、なかなか治らない四十肩、そして人工関節置換術後のリハビリサポートまで、症状も程度も多岐にわたり、年齢層も高齢の方まで幅広い。アスリートとは異なる訴えや治療の経過など、さまざまな背景を持つ方々が来院している。

アスリート対応も、陸上競技に限らず広がっていった。Jリーガーやプロ野球選手、プロダンサー、バレリーナ(プリンシパル)、アーティストなど、他競技のプロアスリートからの依頼が増え、さらにはジュニア世代のアスリートにも、シニアアスリートとは違う視点を持ちながら対応している。

それぞれに求められる「最適解」は異なるが、根底にあるのは、人としての身体を理解し、その人の人生やパフォーマンスを支えること。それを常に意識して向き合っている。この開業を通じて、トレーナーとしての視野と責任は、さらに大きく広がっていくことになる。

2008

集大成の北京オリンピック
1996年から、世界レベルで活躍する陸上選手たちの強化合宿から国際大会まで、国内外を問わず現場に立ち続けてきた。振り返れば、トレーナーとして関わってきたのは、陸上競技界のトップオブトップのアスリートたちばかり。まさに夢のような環境であり、高校生の時に夢に描いていた「日本を代表する選手たちのトレーナー」としての活動だった。

今振り返ると、常に感覚を研ぎ澄まし、「選手の身体感覚に追いつきたい」という一心で日々を過ごしていた。トレーナーにとっては、楽しい時は一瞬かもしれない。それでも、このレベルの選手に関われるこの時間こそが、一番やりたかったことなのかもしれない。

選手それぞれに、身体操作の競技イメージは違う。常に全員の状態を把握し続けることに、気の休まる暇はなかった。それが大変でもあり、同時に、毎日はワクワク感に満ちていた。日本では敵なしと称される超一流のアスリートたちの身体と向き合い、彼らが築き上げたポテンシャルを、どう触れば最大限に引き出せるのか。どんな身体の状態であっても、最速で回復させ、大事な試合では最高値まで引き上げたい。そんな想いで活動していた。

どんな状態でも、なんとかしたい。その想いを実現するために、仮説と実践、そして検証というサイクルを回し続ける。現場こそが、最大の学びの場だった。

4年に一度しか訪れない、オリンピックという舞台。選手がベストの状態でスタートラインに立てるように、トレーナーという立場で日々格闘を続けた。

そして迎えた、2度目のオリンピック。今回は日本選手団のオフィシャルスタッフとして、念願だったヘッドトレーナーの立場で参加した。男子4×100mリレーでは、銀メダルを獲得。長年積み重ねてきた経験と判断、チームとしてのサポート体制が、世界の大舞台で一つの形として結実した瞬間だった。

2012

為末大選手 引退 ― パーソナルサポートの終着点
2008年の北京オリンピックで金メダルを獲る。その目標を掲げて始めた為末大選手のパーソナルサポートは、大会終了後にいったん区切りを迎えた。しかし後日、「もう少しだけ僕の夢に付き合ってください」と連絡が入り、サポートを再開。次は2012年ロンドンオリンピックでのメダル獲得を目標に、為末選手は拠点をアメリカに移しながら競技を続けた。

我々の目標は、「オリンピックで金メダルを獲ること」。しかし、ロンドンオリンピックの出場権を懸けた日本選手権で、思いもよらないアクシデントが起きる。人生でわずか2度しか経験したことがないという、10台あるハードルの1台目での転倒。結果は予選最下位。その大波乱のレースが、為末選手の競技人生最後のレースとなった。

レース後のインタビューを終えた後、私にそっと一言。「気が済みました。ここまで付き合ってくれて、ありがとうございました。」トップアスリートとして、すべてを出し切ったからこそ出てきた言葉だと思う。その一言に、長い競技人生の重みと覚悟が、静かに凝縮されていた。

当時、トレーナーを個人的に依頼するというスタイルは、日本ではほとんど前例のないものだった。競技、身体、そしてメンタル。そのすべてに深く関わりながら支えるパーソナルサポートは、為末選手だけでなく、私自身にとっても、トレーナーとしての在り方を大きく広げるかけがえのない経験となった。

2013

ゼロからのチーム再構築
再びアメリカンフットボール、トップリーグのチーム再建に携わることになる。

当時のチームに求められていたのは、メディカル面の健康管理をゼロから立ち上げる体制づくり。現場経験のない学生トレーナーとともに、チームを支えていくことになった。

チームの目標は明確だった。2部(X1 Area)から1部(X1 Super)への昇格。その実現のために、トレーニングサポートから怪我への対応、予防、リコンディショニング、競技復帰の判断、チーム内での情報共有まで、チーム全体を支える仕組みを整備。チームドクターを組み込んだメディカルサポート体制を構築し、学生トレーナーを率いながら、現場での判断基準と役割分担を一つひとつ整えていった。

この年を起点に、以後9年間にわたりチームをサポート。トップアスリートの現場で培ってきた経験を、チームづくりと人材育成へと還元していくフェーズが始まった。

2020

危機下でのチームコントロール
世界中を巻き込んだ新型コロナウイルス感染症の拡大で、スポーツ活動は一変した。誰も経験したことのない事態に、チームドクターと連携し、いち早く感染対策に着手。チーム内感染ゼロを目標に、行動基準と対応フローを明文化した、チーム独自のプロトコールを構築した。

日々変化する感染状況の中で、医療的判断と現場運営のバランスを取りながら、60名以上の選手を抱えるアメリカンフットボールチームのコンディショニングを管理。スタッフを含む全員の健康管理と活動継続を支えた。結果として、チームスタッフの理解にも支えられ、プロチームレベルのコントロール体制を実現した。

2021

大会を支える側へ― 国境を越えるサポート ―
コロナ禍という前例のない状況下で開催された、東京オリンピック・パラリンピック。自国開催という特別な大会で、選手村に設置された医療施設「ポリクリニック」内のフィジオルームで活動した。

この施設は、世界各国から集まった全アスリートと関係者が無料で利用できる医療サポート施設。医師による診察と検査、理学療法、マッサージ、鍼治療などに加え、トレーニング施設も併設され、競技種目や国籍を越えたサポートが日常的に行われていた。これまで経験してきた日本代表チームへの帯同とは異なり、今回は大会運営側(選手村本部)のスタッフとして活動する立場。フィジオルームでは、セラピストたちをマネジメントしながら、限られた時間と環境の中で、医療とコンディショニングの両面の質を保つ役割を担った。

また、これまで関わる機会の少なかったパラリンピアンのサポートにも携わり、競技特性や身体状況の違いを踏まえた対応ができたことは、とても貴重な経験となった。

2025

大会を成立させる責任
東京世界陸上では、大会組織委員会のメディカルスタッフとして活動。

日本代表を支える立場ではなく、世界中から集まる選手たちを支える側として、国際大会全体を俯瞰する役割を担った。競技種目や国籍を越えて、選手の安全とコンディションを守る。その責任と判断の重さは、これまでの代表帯同とは異なり、長年積み重ねてきた現場経験と統括力が問われるものだった。

「誰かのため」ではなく、「大会そのものを成立させるため」に動く。その経験は、トレーナーとしての視野をさらに広げる、大きな節目となった。

ソガジクへ ― これまでの経験を、次の世代へ

現在、曽我はこう語る
「自分が経験してきたすべてを含めて、アスレティックトレーナーという仕事を、もっと社会に知ってもらいたい。 そして、この仕事の社会的地位向上と、後進の育成に関わっていきたいと考えています。」

スポーツの現場やアスリートにとって、アスレティックトレーナーの存在が重要であることは、すでに多くの人が理解しています。
しかし、プロレベル以外のスポーツ環境では、専門家を雇うための予算が十分に確保されにくい現実は、今も変わっていません。
「お金を払う価値」をどう伝えるのか――これは、プロになればなるほどトレーナーが直面する大きな課題です。

その根本には、消費者目線でのメリットが、まだ十分に伝わっていないという問題があると、曽我は考えています。

予防医学が注目される時代となった今だからこそ、怪我をしないための確かなアプローチと、効果のある技術に基づいたコンディショニングが必要です。 しかし、そうした本質的な方法は、まだ日本のスポーツ界全体には広く浸透していません。 見よう見まねでは伝わらない、現場で磨かれたプロの技術。 それを体系的に伝えていく場が、ソガジクです。

近年では、プロチームに限らず、学生スポーツの強豪チームにおいてもフルタイム、あるいはパートタイムやスポット参加といった形で、トレーナーが雇用される機会が増えてきています。
一方で、「トレーナー」という呼称のもとに、経験や資格、バックグラウンドの異なる人材が混在し、対応できる内容に大きな差が生まれているのも現実です。 これもまた、トレーナーの価値が正しく伝わりにくい要因のひとつです。

本来、怪我や不調のない状態で練習を継続し、レベルアップしていくことが理想です。 そのために重要なのが、パフォーマンス向上を目的としたトレーニングとリカバリー。 そして、不調や怪我が起きてしまった場合には、その原因を明確にし、回復と機能改善を最短で行うことで、復帰までの期間が大きく変わります。 その役割を担う専門家が、現場には必要なのです。
曽我もまた、その一人として活動を続けています。

特に「アスリート」と呼ばれる、本気で勝負に挑む競技の世界では、アスレティックトレーナーがいるか、いないかで、選手・チームのパフォーマンスは大きく変わります。

安心できる存在がいる。何かあっても対応してくれる専門家がここに居る。

トップレベルで活動するアスレティックトレーナーは、一般の方が想像している以上に高い専門性を持って、スポーツ現場で活動しています。

目の前の状況だけでなく「その先」を見据えながら、瞬時の判断ができるように見守っています。
近年、同様の経験を積み重ねてきたトレーナーも少しずつ増えてきています。特定の競技や種目に特化して活躍するトレーナーがいる一方で、複数競技に関わり、トップレベルからジュニア世代までを幅広く支えている存在は、まだ多くはありません。

曽我が考える「優秀なトレーナー」とは、知識や経験年数の多さだけで評価されるものではありません。

「この人なら任せられる」と、選手から信頼される人間性こそが、最も重要だと考えています。

相手は「人」であり、感情を持つ存在です。
理論や理屈だけですべてが通用する現場は決して多くありません。

選手に寄り添いながら、必要な場面では的確な判断を下し、最短・最速・最善の対応ができること。
時には、あえて距離を取り、遠くから見守る判断も求められます。
そして、自分ひとりで完結しようとせず、医師や理学療法士など、他の専門家と適切に連携できること。

このマインドを持ち合わせた人物こそが、次世代に求められるスポーツ現場に必要なアスレティックトレーナーだと、曽我は考えています。

この35年で積み重ねてきたのは、実績そのものではなく、現場で答えを出すための「判断」です。技術は真似できても、判断は学ばなければ身につきません。その判断を、次の世代へ体系的に渡していく場。それがソガジクです。

次にスポーツの現場に立つのは、これを読んでいるあなたかもしれません。そのときにこの経験のすべてが役に立つよう、曽我はソガジクで待っています。